最終章を中々公開しなかった理由 手術が終わって、長い間その後の経過を公開する気になれなかった。手術の後遺症に悩まされ、心身共に唯々それに向き合う ことだけで精一杯になってしまった。 最もなりたくなかった状況に陥り、自分で選択した結果であることが無性に腹立たしく、精神的なダメージが大きかった。 そのためこんな状態でホームページを作るとグチばかりの情けない記録しかないものになってしまうこと必定と思い、当分ほ ったらかしにすることにした。 2009年12月16日、今年最後の検診を受けた。11月は比較的体調が良く、少ないながらも食事も順調にとれ、代々木公園や小石 川後楽園に写真を撮りに行こうという意欲が出て実際に行くこともできた。しかし年賀状を作り、来年のカレンダーを作り終 えた頃からまた体調が悪くなり、少し食べるとダンピング症状が強くなり、食べることが嫌になるほどになってしまった。 体重も50sを切ることもあり、精神的にも鬱的状態になった。 16日は10:30の予約であったが診察を受けられたのは12時近くであった。食道外科の外来は今年最後という事情もあったので あろう。出江(イズミ)先生はそれでも丁寧に対応して下さった。症状を訴えると、治療経過としては在り得ることとで特段心配 することも無いが、あまり苦しいようだと入院しても良いとのことであった。 雑談の中で、私のホームページを見ている患者さんが何人かおられ話題になることがあると言われた。私が手術以降のことをま だ公開していないのは、今の精神状態では冷静に判断できる状態ではないと思うからで、公開はもう少し落ち着いてからにする つもりだと申し上げると、先生も是非そうして下さいとおっしゃった。 手術そのものの様子、手術後の経過、治療の過程で得た知識や感想はすでに殆んどまとまっている。精神的に落ち着いたと感じ ればすぐにでも公開できるようにしていた。12月20日の週になり、気持ちも大分落ち着いてきたことと、駒込病院に入院してち ょうど1年になることもあり、この最終章を書き上げ、公開する前に出江先生にご意見を伺ったところ、下記のようなコメント を頂いた。(先生から頂いた詳細なメールのごく一部を抜粋したものです。) 『これは非常に貴重な体験談で、基本的に外科医は誰もが納得する 内容です。ネガティブなことも大いに書いていただいて結構です。それが進歩につながります。 ただ一般に公開するに当たっては、ネガティブなことしか伝わらないのが少し心配です。 (実際はポジティブな部分の方が多いのですから)ネガティブな部分をポジティブな部分が最終的に大きく上回るから、手術を 選択したのですから。』とあった。 先生のコメントにある通り、現在まだダンピングが治まっていないためネガティブな表現ばかりが強調されすぎているというご 指摘はごもっともであり、先生のご指摘も考慮しながら加筆修正を行った。この中で、先生が福岡の学会で発表された新しい手 術の手法を公開された動画も頂いていたが、著作権の問題で公開は遠慮するよう要請されたので残念ながら割愛した。
食道がんと診断された方またはその家族の方へ 食道がんが発見された時点で、手術を選択できる病期(ステージ)であったらこの病気では幸運な方であり、年齢的な面、体力 の面で考慮すべきではあるが、基本的に現時点では手術で患部を取り去ることが一番確実な方法であると、色々と調べまわった 結果、私は今ではそう思っている。 がんは一人として同じものではなくその人個人特有の症状や経過を辿るとも言われている。抗がん剤や放射線も人によって効果 があったり全然無かったり、副作用もマチマチでありその理由は充分に解明されているとは言い難いのが現状である。この記録 はまだ治療中のものであり、後遺症が収まっていない段階で書かれていることに留意していただきたい。ただ手術は簡単なもの ではなく、私にとって侵襲性が低いとはとても言えるものではなかったことも事実である。侵襲性が低いとか高いとかは感覚的 なものであり、比較の問題である。個人的に受け止め方が大きく異なるものでもある。手術の是非を評価する項目としてはあま り妥当な評価項目ではないのかもしれない。 さらに付け加えると私は『食道がん』の手術を受けたのであり『胃がん』の手術を受けたとは思っていなかったことが上げられ る。勿論胃にがんがあった訳ではないが、食道をほぼ全部摘出し、その代わりに胃を使って管を作り食道の代わりにするので、 胃がんで胃を摘出するのと同じような手術も受けたことにもなるのだ。 重粒子線治療を選択するときにも、食道がん手術の大変さは本を読んだ知識で理解はしていた。もし、『胃がん』の手術を受け たのであれば胃を切除した後どのような後遺症が起こるのかもっと調べたと思うが、『食道がん』という項目で調べると手術の 大変さは強調されているが、後遺症についてはそれほど記載されていないものが多い。例えば『がんサポートセンター』という サイトの「各種がん」『食道がん』という項目を見ると胸腔鏡と腹腔鏡を使った手術が、如何に体の負担を大幅に軽減し、合併 症の減少に成功しているかを誇らしげに報告しているのを見ることができる。 しかし、私の場合、手術後9ヶ月を経過しようとしている現在でも,良くなったという感じは全く無く、時には体調が手術直後 より悪くなったと感じることも多い。 これは、手術前に後遺症に対する覚悟が殆んどできていなかったことによる反動が大きかったためではないかと、今にして思っ ているところである。 この面でも、この記録は私個人の感じた、かなり感覚的な記録であり、どのような治療を選択するかは主治医に良く相談され、 自分自身で納得できた方法を選択されるようになさっていただきたい。くどいようだが、問題があるにせよ手術に優る治療法は 現在のところないというのが、今の私の結論である。 最初にもお断りしているがこの記録は医学的知識の無い素人の思ったままの記録であり、内容の妥当性や正確性についての判断 は自己責任でお願いしたい。
2009年4月1日撮影 内視鏡写真@ 内視鏡写真A![]()
そして4月に見たこの写真である。主治医である出江先生は、抗がん剤ではがんを完全に死滅させることはほぼ不可能であること、
この写真を見る限りEMRは危険性が高く、食道を残した場合、食道の壁内のリンパ管を伝わって転移する危険もあること、
さらにリンパ節にもCTでは捉えきれないがん細胞が残っている可能性があり、今手術で完全に除去すればまず100%完治す
ると、熱心に手術を勧められた。後日、先生はまた『内視鏡を見たときは、なんとかEMRできないかと思いながら、超音波
内視鏡を行ってもらいましたが、超音波内視鏡では、線維化のために筋層との境界が不明瞭な部分もあり、すべては癌でない
にしても遺残はある、という診断(病理の結果とほぼ一致します)でEMRで治すのは、難しそうだと、内科も含めて判断したわ
けです。静脈侵襲があった場合は、追加治療を行うという、現在の一般的なコンセンサスから考えても、手術を最初に行った
ことは、結果的に間違っていなかったということになります。EMRで病気が残ってしまうことと、リンパ節転移が心配だったわ
けです。
重粒子線後の線維化で、多少穿孔などの危険性も考慮しましたが。』と話された。
駒込病院には前年のクリスマスイブに入院し、エイプリルフールに、手術確定という皮肉なプレゼントを頂いた気分だ。
家内は、私は絶対手術を拒否すると思っていたため、びっくりしたようであったが、この時点で手術を拒否する選択肢は事実上 残っていなかったのである。 EMRで削除するという選択肢はあるにはあったが再発の可能性がかなり高いと説明された。 PDTとか免疫療法も真剣に検討したが、違う病院に再入院し検査漬けになって治療し直す必要があり、その上まだ評価も定ま っていない治療を受ける時間も、費用も心もとなかった。 ネット上で調べれば、代替医療や神がかり的治療は色々とあり、中には熱心に勧めてくださる方もいたが、宣伝文句をみると、 そんなに素晴らしい効果があれば、がんは騒ぐほどの病気ではないはずである。全部が悪意ではないと思うが、人の弱みに付け 込んで儲けようとするさもしい輩が堂々と看板を掲げているのをみると、彼らの倫理観や自尊心は、いつからどのようにしてな くなってしまったのであろうかと苦々しさを感じた。
駒込病院での全治療経過(出江先生に作成していただいたパワーポイントの資料。) 病理組織学的効果判定は切除標本でのHE 染色所見にもとづきGrade 分類 (Grade 3 を著効,Grade 2 を奏効,Grade 1 を無効と判定) ヘマトキシリン・エオシン染色(HE染色、H&E染色)は組織学で組織薄片をみるのによく使われている。ヘマトキシリンは青紫色 の色素であり、これに染まる組織をヘマトキシリン好性あるいは好塩基性という。具体的には細胞核、骨組織、軟骨組織の一部、 漿液成分などである。エオシンは赤〜ピンクの色素であり、これに染まる組織をエオジン好性あるいは好酸性という。具体的には 細胞質、軟部組織の結合組織、赤血球、線維素、内分泌顆粒などである。特に赤血球はエオシンを強く吸収して、明るい赤に染ま る。青藍色に染まることもある。 組織学的治療効果判定として、腫瘍の完全消失をGrade 3、2/3以上の消失をGrade 2、2/3より少ない消失をGrade 1、消失なしを Grade 0としている。病理診断の結果はこちら→後述あり 出江先生は駒込病院の食道外科の医長であり、この分野のトップである。毎週水曜日に終日外来を受け付け、木曜は手術、それ以 外の日は、研修医の指導や病棟の責任者と、正に八面六臂の活躍で夜勤もこなされているようである。 私はずうずうしくもこんな殺人的スケジュールをこなしている先生に、ホームページに出せるようなビジュアルな資料が欲しいと お願いしたのである。 先生の風貌は、特に鼻の形が今上天皇に良く似ておられるので、入院中にはナースに「陛下は今日回診されるのか?」などと聞い ていたが、誰も間違える人はいなかった。素人がこの資料を見ても、あまり臨場感が伝わらず、中身も良 くわからなかったので、インターネットで自分が受けた手術が分かるものはないかと探してみた。 その結果、「鏡視下食道切除・再建術(HALS併用)」の実際というDr.井上晴洋氏のホームページを見つけ、出江先生に自分が受け た手術に一番近いようだがどうでしょうかと聞いてみたところ、チョットびっくりされたような顔をされ、「これにかなり近い手術 です」と答えらた。 (Dr.井上の資料は後掲) 出江先生のコメント: (1997年5月2日本邦第1例の「鏡視下食道切除・再建術(HALS併用)は、当時の医科歯科大学の遠藤教授の指導により、井上 先生と私が、長期にディスカッションも重ね、地道に計画を立てて行った手術です。当時、術後肺炎や大きな開胸創による障害が大 きな問題でしたが、QOLも考えた治療を行っていこうという考えの一環でした。 食事摂取に関しての研究もその当時行いましたが、とても難しく、消化管運動に関して、実際にはほんのわずかなことしかわかって いないのと、劇的に改善させる方法はなかなかないこと、時間と共に必ず改善する事などがわかりました。この分野はそれだけを研 究している人でもなかなか難しいようです。吉田さんも調べられていましたが、患者さん同士の情報交換は極めて重要で、先日も院 長、副院長とのヒアリングで、情報交換する場所やシステムを構築するよう要請し、新しい病院ではできることになっています。)
手術前と手術以降 手術前に受けたインフォームドコンセント(説明) 手術前日手渡された「食道癌の手術についてのご説明」という資料によると、先ず鏡視下食道切除・再建術という手術の『概略』と して「電子スコープを使い傷を小さくすることによって手術の侵襲を軽減する比較的新しい技術です。」とある。 さらに、低侵襲性や予後について楽観的な記述が続く。ダンピングのことや、手術後の苦しさについては何も記述されていない。 (手術前に受けた説明書A4、2枚の項目) 1 概略 1)低侵襲性 2)予後、 2 手術の必要性について、 3 手術の方法、 4 合併症 1)出血:2)肺炎:3)縫合不全: 4)嗄声(させい)、5 手術以外の治療法について、6 放射線療法、抗癌剤療法の合併症、7 術後経過 、8 切除検体に関して (以上八項目の説明があった。) 7の術後経過では『手術当日から翌朝まで人工呼吸器による管理となります。術後10日目から食事開始(5分粥)となります。』 とこれだけの説明しかない。 資料に基づき、口頭で説明を受けたのは事実であるが、すでに手術する前提であり、訴訟防止のセレモニーであるとの印象はぬぐえ ない。 [A4]2枚の説明書で理解できる範囲は限られており、この程度の資料で術後の苦しさなぞ到底想像できるものではない。今から考 えると、もっと動画なども使ったビジュアルな資料が良いし、経験した患者の話なども伝えるべきではないかと強く思う。それにが んに対する知見のレベルや限界についてももっと突っ込んだ記述や説明があってしかるべきだと思う。もし私が事前に立花隆の番組 (後述)を見ていたら、もっと違った理由や覚悟を持って手術を選択したと思う。 後日、出江先生との面談やメールで胃を切除した人の患者会アルファクラブのことを教えていただいた。このサイトは胃がんで胃の 全摘や亜全摘をした患者や、それをサポートする医療側が胃切除後のケアに関する情報を提供する有料の会員制サイトである。この サイトで後遺症に関する記述があったので、以下にその抜粋を掲載する。
「アルファクラブ」の記事(黄色地の部分)
後遺症に対する関心を1982年、本会創設の発端となった、1000人アンケート(『胃を切った人の後遺症』)の結果は、胃切除術にかかわる当時の 外科医に驚きをもって受け止められ、後遺症に対する関心も高まりました。その当時の後遺症の状況と今回のアンケート結果を、単 純に、後遺症の有無と重症度で比較したのが、図1です。 胃切除後の再入院本来、術後短期に再入院する器質的障害は、胃手術に限らず、開腹術、あるいは原病に起因する後遺症と考えるべきなのでしょうが、 ここでは、胃癌・胃手術に直接関係する特徴的「再入院」として調べてみますと、17・9%(57人)、約5人に1人の割合で再入院 していました(図3)。 その原因のトップは腸閉塞であり、再入院した全体の50.9%を占めています。術後の食事に対する正しい理解と知識の重要性が改め て指摘されます。 胃切除後後遺症と経年変化一般には、胃切除後の後遺症状は、少なくとも自覚的には、術後年数を経るに従い、自己コントロールと慣れにより軽減されると考 えられています。しかし、22年前も同様でしたが、1年未満から2年目には若干重症な悩みは減少するものの、3年目に入ると横ば いか少し増加しています(図4)。これは、「胃切除後」である「自覚」が時として薄れるために症状が出現したり、逆に3年たっ ても改善されない焦りが、症状を悪化させる場合があることを示唆するデータと理解できます。 |
手術とその後 4月14日に手術を受けてから、体調が一変してしまった。手術そのものは全く記憶も無く、翌日ICUで目覚めたときも、気分的 にも体調的にもむしろ快適であった。 すぐ歩行訓練があったが、痛みも殆んど無く3日目には一般病棟へ復帰した。 手術は全身麻酔と局所麻酔の一種である硬膜外麻酔を併用して行われた。 この硬膜外麻酔のおかげで手術後も痛みを感じることは無く、小学生のときの盲腸炎の手術と比べても完璧に近くコントロールでき ていた。 硬膜外麻酔のムービー ICUから個室の一般病棟へ復帰し、その後服用した嚥下防止訓練用ゼリーが良くなかったのか、服用後激しい肺炎に見舞われ意識は 混濁し、色々な人が訳の分からない言葉で話しかけてくるが、殆んど何も分からなかった。こちらもしゃべっているのであるが、何を 言っているのか分からないと言う言葉だけが妙に頭に響くだけであった。 中間君は三途の川という表現を使ったが、仏教徒でもない輩は、そんな川も彼岸も、此岸も見えず、狭いストレッチャーの右か左に落 ちたら天国か地獄に行くのかと馬鹿なことを考えていた。天国へ行くとあまり友達がいそうに無いし、地獄で苦労するのも嫌だし、何 も分からず蒸発するのが一番よさそうに思えた。 結局、手術以降5月25日まで腸瘻からの点滴による経腸剤だけで命を繋ぎ、25日には食事を摂り始め、 31日にこのチューブをつけたまま退院することになった。この間一度だけ輸血を受けた。 輸血をすると告げられたとき自分はそんなに状態が悪いのかと不安になったが、1回だけだったのですぐ忘れてしまった。 口からも少しずつ食事を取るよう努力したがダンピング症候群や下痢と咳に悩まされ、下痢と咳はまもなく軽快したものの、ダンピング 症候群は2009年12月現在もまだ続いている。外出できるのは、お腹に刺さっている腸瘻のチューブが取れるまでは無理で、この程度のチ ューブがついているだけで精神的なダメージが強く、外に出る気も起こらない。私より重症な人の、「後余命何日です」と宣告されたと きの気持ちを体感できた訳ではないが、初めて病人の心が少し分かったような気がした。25日に再開された食事は「スワロウ食」と書いてあった。看護師に意味を尋ねたが、殆んどの人は知らなかった。 ある人は嚥下の「嚥」が燕(つばめ)と似ているからだともっともらしいことを言った。どうも信じる気になれずswallowを辞書で調 べてみると、「〜を飲み込む。」「うのみにする」という意味があることがわかった。多分、この意味で使われていると思う が、確認はしなかった。いずれにしても美味しい料理ではない。後でインターネットで確認してみたら、何と駒込病院で開発した食事 方法だった。
この間、食事についてくる献立表には『牛乳禁』と出ていたが5月30日の昼食には牛乳が堂々と出てきた。 こういうところはこの病院はかなりいい加減なところがある。
病理組織診診断報告書2009/05/11付け 駒込病院は自宅から遠いので、退院後のダンピングによる急な体調変化に不安を持ち、最初にがんを発見してくれた近場の湘南あつ ぎ病院に緊急の場合、対応してもらえるよう依頼書類(診療情報提供書)を出江先生に5月29日に作っていただき、あつぎ病院の担当 医に連絡していただいた。 そのなかの『病理所見』 胸腔鏡下食道亜全摘材料: 胸部食道に7x5mm大の丈の低い隆起性病変があり、ルゴール染色で不染となる。 組織学的には、同部に一致して扁平上部癌の遺残を認める。好酸性の細胞質と大小不同の核を有する癌細胞が胞巣状に増殖し、筋坂 内に浸潤している。静脈侵襲像あり。 そこから約12mm口側の上皮内にも、顕微鏡的に0.4mmの癌の残存を認める。主に前者の病変の口側で粘膜筋板の断裂をともなう粘膜下 層の繊維化が認められる。 癌を含めた繊維化の範囲は、約20x15mm程。化学療法/重粒子線療法の効果を反映する所見で、治療前はT1b(SM)相当の癌であったこ とが推察される。治療前に腫大が指摘されていた106recRには、相当するリンパ節構造はなく、他のリンパ節にも転移があったかどう かははっきりしない。治療効果はGrade2相当と判断する。 この報告書を見て、特に「静脈侵襲像あり」という表現に衝撃を受けた。多分に転移の危険性はあり、それほど喜べる状況でないこと が分かる。私が口頭で受けた手術後の説明とはかなり開きがあるように感じたが、どちらにせよ、なるようにしかならないと思い、妻 を含め誰にもこの病理所見のことは話さなかった。
その後の経過 退院後、6月3日にかなり無理をして数日がかりで「無聊の記」を公開したが、それ以降も体調は日によってめまぐるしく変わり、手 術直後よりかえって悪くなった感じがする日が度々であった。 この間、食欲は全く起きず、そうかといって何も食べないわけにもいかず、無理に食べると膨満感が強く、息は早くなり疲労感と脱力 感でリクライニングチェアーに倒れこむ毎日であった。少し落ち着くと、もう次の食事の時間である。妻が心配して色々工夫をして出 してくれるが、何を食べたいかと聞かれても何も思い浮かばず生返事をするだけである。 嗜好が変わり、好きだった肉類は全く受け付けず、米飯も殆んどダメ、パンもほんの少ししか入らない。味噌汁など温かいものは口元 に持っていくと猛烈に咳き込んでしまい、精神的なダメージも大きかった。それでも何とか口から食べる努力をし、バナナとクッキー を主食に、ミルクやヨーグルト、メロン、スイカ、パパイヤ、イチジクなど食べることが多くなった。これで少し調子が良くなって普 通食に近いものを食べようとすると、食べた後の不快感が強く殆んど食べられないこともあった。 こんな時は、腸瘻から栄養剤を入れるのだが、腸は内腔が狭く、胃のように流動食をためておくことができないため注入速度が早すぎ ると下痢をしたり、ダンピング症候群の症状をおこし、立っていることも辛く感じる。この時は飴を舐めたり、粉砂糖を直接食べたり すると、比較的早く症状が治まるが、そんな訳で食べるという作業だけで1日が過ぎていき、私がもっとも忌避していた後遺症を治す ために生きるという状態に陥ってしまった。食事をするとそれだけで不快感が強く、テレビも本も見る気が起きるどころではない。 腹には腸瘻のための細いビニール管が貼り付いており、大丈夫だといわれていても風呂に入るときは気になって、体を思いきって洗う こともできなかった。そんな訳で、6月10日の検診のときに、まだ残しておいた方が良いという先生の勧めを断って、腸瘻を抜いて もらった。 その後も食欲不振は相変わらずだが、ご飯が喉に入らないときは、バナナとクッキーなどを食べ、体重が60キロを下回らないよう努 力した。 東海大学の幕内教授の著書では「仕事は個々人で差があります。戻ろうと思えば、退院後二週間ぐらいで復帰できると思いますが、ま だ無理はできません。バリバリ働くには、手術後だいたい三ヶ月ほどかかります」という記述がある。(189頁)そんな人が本当にいる のか確かめようも無いが、65の体には夢物語の話だ。 駒込病院の主治医も会うたびに楽観的な見通しを話してくれるが、これまでのところ、実態とはまるきりかけ離れている。6月を過ぎ ても我が家の猫のアブサンと同じくらい何もせず、一日の八割以上を寝て過ごしている。ランニングマシーンを購入したがゆっくりし たスピードでも20分歩くのがやっとで、その後はベッドに倒れこんでしまうほどで、余程体調が良いと感じる日以外はやる気も起こ らない。 といったわけで、パソコンもメールを時々見るだけぐらいで、悪いと思いながら返信も差し上げられなかった。今考えてみると、手術 前は全く病気でなかったと思える。 多少の不安と苦痛はあったが、体の自由は利くし、気力も充分にあった。今や廃人寸前である。情けないが気持ちに体が全く対応して くれない。 手術後の色々な症状より、精神的な苦痛の方がより重く感じられ、欝的な症状が重くなったように感じた。 4月中旬の手術以来、7月までは60kg以上をキープしていたが、その後の不調で、8月には去年は68kgあった体重が、16kg減の 52kgすれすれまでになってしまった。52kgはワンゲル時代の体重と同じで、夏合宿の縦走の後では49kgまで減ったこともありス ケルトンと呼ばれていた。体重が若い頃と同じになったせいか、かなり若返り、抗がん剤で脱毛し真っ白になっていた髪は、上下とも 黒々ふさふさになった。 ヤカン爺と名付けた中村君に分けてあげたいほどである。 アブサンは、私の瘠せるのに伴って激瘠せし、体をなでると骨と皮だけである。対するスケルトンもメタボ体型は一変し、以前のズボ ンはベルトを短くしてもだぶつきがひどく、みっともなくて着られたものではない。風呂に入って腹回りを見ると、余った皮が提灯バ バア状態になっており、こちらは見られたものではない。 家内は両方の厄介者をかかえて苦労しているが、アブサンには獣医でしか売っていない一缶400円以上する特別の栄養食と老猫用の餌と か、人様用の鰹節や刺身などまでの大判振る舞いで、このところやっと少し肉がついてきたようである。スケルトンにも配慮はしてく れるのだが、こちらは体が受け付けてくれず、家内もどうしようもなく格差は開くばかりである。 10月に入って体調は最悪となってしまった。主治医は、11月なら海外旅行もOKですよと言ってくれていたが、とてもじゃないが車椅子 でも無理な状態である。 胃のあたりに鉛の玉が入っているような重苦しい感じが常にあり、無理に食べると、息苦しくなって手で胃を掴んで放り投げたくなる。 食べてから2時間近くは不快感が強く、リクライニングチェアに倒れこんだまま落ち着きを待つが、重苦しい感じはなくなることは無い。 9日は駅の近くの眼鏡屋まで行こうと思って家を出たが、足元がふらつき朦朧としてきたので行き先を変更してすぐ近くの内科に駆け込 んだ。 そこで点滴を受け、少し落ち着いたが医者は早く駒込病院へ行くよう勧めた。 翌日、家内に画廊を休んでもらい駒込病院へ行ったが血液検査の結果は異常もなく、結局点滴を受けただけで厚木へ舞い戻った。再入院 することも考え、準備はしていたが、どこの病棟に入れられるのか、分からないし点滴を受けている間に、痛い痛いと大騒ぎする人や、 譫妄状態の人のうわごとが引っ切り無しに聞こえてきて、隣のベッドの人がこんな状態なら耐えられないと思った。12階と13階病棟に空 きベッドが無いと聞いたことも影響している。 我が家へ戻り、しばらく休んだら元気が出てきたので、行きつけの寿司屋に行くことにした。入院中改装工事を行っていて、この日は久 しぶりに馴染みの草野さんと言う女性にも会うことができた。ほぼ同年代の彼女は大分前に退職しているのだが経験を買われ、若いウエ イトレスの教育係として時々働いているとのことであった。 その彼女から、最近の私のホームページは愚痴が多くなったけど励まされている人も多いから頑張ってと言われ感激した。 10月の予定では28日に検診を受けることになっていたが、その後も体調不良が続き、気分的にも耐えられなくなってきた。 11日に出江先生から電話を頂いた。あまり心配することはないが、苦しいようなら入院してもよいとのことであった。 このところ朝から、少し食べると胃の膨満感がひどく、かなり苦しい状態が食後2時間ほど続いて、3食摂るのが非常に苦痛になってい ることを伝え、20日に入院させてもらうことになった。 10月20日 検査入院 これまで献身的に看護してくれていたナースの○○さんが今回は事務的で何かよそよそしい。聞くと彼女のボーイフレンドが大腸がんの 末期で手術があり、本来の仕事以外にプライベートで彼の看護しているそうで、かなり疲れきっているとのことだった。 彼女の同僚のXXさんはダイエットの成果が現れ、かなりスマートになっていた。そのことを言うと嬉しそうな仕草で、少してれていた。 午後9時過ぎに出江先生が顔を見せてくれた。相当に忙しそうである。彼の言によると決して悪い方向ではなく回復に向かっているから 心配するなという。 私は手術以来良くなってきているという実感はなく、最近はむしろ悪化してきているように思うといったが、出江先生はそれは私の思い 過ごしで前よりかなり良くなっていると断言した。主治医が楽観的で、患者が悲観的というケースは良く有るケースだろうが、反対のほ うがハッピーなことは間違いない。 点滴開始。今回の入院での食事は「胃術後食」となっていた。もちろんうまいものではない。 21,22日は点滴2本を16時間かけてやっただけ。26日まで継続。その後は1本のみ。 入院していると、食事のことを考えたり用意したりする必要がなくなり、それだけでも気分的に楽になったが、他の患者さんと喋る気に もなれず、一日中本を読んで過ごした。 10月23日 嚥下機能造影検査 我が家のネコのアブサンの餌のようなものを食べさせられながらX線でその餌の動きを見るといった検査だ。灰白色がかったペースト状 のその餌は味は思ったほど悪くはなかったが、気味の悪いものであった。 嚥下機能や胃の機能には問題はなかったが、胃の大きさが本来回復すべき大きさの半分程度しかなく、このまま放置しておくと将来にわ たってそんなに食べられないとのこと。 夕方、食道がん仲間の中間君がまた見舞いに来てくれた。彼は病院だけでも4回以上、それに自宅にも来てくれたこともある。和歌山県 のアンテナショップで買ってきたという、早稲のみかんを持ってきた。 その日夕食を摂っていると、隣の患者の所へナースが来てその人が受ける明日の大腸内視鏡検査の話を始めた。カーテン1枚隔てて私が 食事しているのは分かっているはずなのだが、下剤を飲むと最初は固形物が出るがだんだん黄色い水状になり、透明感が出たらナースを 呼ぶように、そしたら浣腸をして内視鏡検査ができるという話を大きな声で明瞭に話をしてくれた。さすがに隣の患者が小声で隣は食事 中じゃないかというと、ナースもひそひそ話みたいにしゃべり始めたが、中々結構な夕食であった。 10月24日 長女が見舞いに来た。京王デパートでパジャマを買って来てくれた。 長女は「お父さん痩せたね」と言い「でもここに入院することもないのに」と続けた。「どうして?」「簡単ジャン、ナースのXXさん に何をどのくらい食べているか聞いてその通りすればいいのよ」とのたまわった。「でも今週会ったら結構痩せてたよ」「そんなのすぐ リバウンドするよ」・・・さすが、この父にしてこの娘ありである。 ひとしきり取り留めのないことを話し、1時間ほどで帰った。まだ独り者で気ままな生活をしているようだが、当分結婚する気はないよ うであった。 早いうちに結婚して良い家庭を築いてくれればと思うのだが・・・・・・ 病院の規則 今回入院の際、前回の検診で処方された薬を持ってきたのだが、リスミーとマイスリーという催眠剤はすぐに取り上げられた。他の薬は 返ってきたが、少ししてリンコデは麻薬だからということで、これもまた取り上げられた。両方の薬とも前回1.5か月分も処方され、 自宅にあった薬である。この薬は処方箋に従って薬局で購入したものであり、入院の有無にかかかわらず患者の管理下で服用することを 前提としたものであるはずだと思うが、どういう理屈で病院に持ってきたら患者は管理してはいけないということになるのか、理解に苦 しむことである。 ちなみに他の薬は今まで通り服用してくださいと言われた。 10月25日 今日の担当ナースはYYさま、アラフォーの人妻ナースで、主担当ナースの○○さんと同期である。骨格の頑丈そうなナースで、いつも マスクをしているので名前を覚えていなかったため、ちょっとむくれられたが話をしてみるとサッパリした性格で話が弾んだ。 10時前に妻が来た。午後から画廊の仕事があるとかで30分ほどで引き上げていった。胃が期待値の半分くらいしか大きくなっていな いことと、23日の医師の話をしたら、「もっと食べなきゃそりゃ大きくならないわよね」と言う。「食べられないからここへ来たのじ ゃないか」というと、「私なら絶対手術はしなかった」と言う。 妻とはいつもこんな風に意見がかみ合わない。あまりしゃべると、面倒なことになるので他に言うことがなくなってしまった。 入院前、妻が何を作ってもほとんど残すし、ふうふう唸って寝てばかりいたので彼女にも相当のストレスが溜まっていたのであろう。 気まずい思いをしながらエレベータの前でバイバイした。 今更しょうがない話しであるが、4月に下した決断が間違っていたような気がして気分が沈んだ。 10月26日 CT検査は待ち時間を含め30分以内で完了。これで今日は点滴以外何もすることは無い。体調も殆んど変わらず良くも悪くもなかった。 今日の担当ナースは、若いZZさん。前回の入院時は寮にいたはずだが、今は同棲中だという。我々の若い頃は同棲するということ自体 罪悪感があったが、今は全くそんなことはないようで、屈託なくはなしてくれた。 主担当の○○ナースは避けているかのように中々姿を現さない。気にはなったがどうしようもなく1日、本を読んで過ごした。 10月27日 今日は一日何の予定もない。点滴も1本に減った。手術以来、駒込から初めてきれいな富士山が見えた。こんなはずじゃなかったのにと いう思いがまた胸をよぎった。 主担当の○○ナースは体調不良で休暇をとっているそうだ。彼女も相当ストレスが溜まっているようで元気がないと同僚のナースも心配 していた。 10月28日 内視鏡検査のため朝食禁止だが、8時ころナースが10時のおやつを持ってきた。「食べても良いのか」と聞くとあわてて持ち帰ってし まった。 そ知らぬ顔で受け取っておけばよかったと後で後悔した。11時右耳の異常について耳鼻科の診察を受けた。特に心配な点はなく、急激な 体重減少のとき起こる現象ではないかと言うことで、治療することはないとの結論であった。 3時になってようやく内視鏡検査の呼び出しがあった。食道外科チームNo.2の先生が操作し、若い医者の教育も兼ねて行われた。 いつも鎮静剤を使ってもらっているのだが、今回は駄目だと言われそのままカメラを飲むことになった。危惧していたより楽ではあった が、嫌な検査であることには変わりはない。夕食は朝昼抜きだったにも拘らず、食欲がなくなるような食事がでてきたのであまり食べら れなかった。病院では厄介な患者だと思っているだろうが、こちらもかなりウンザリしている。 10月29日 朝方主治医の先生から、今回の検査結果の総括的説明を受けた。結論から言えば「異常なし」「胃を大きくするには少しでも良いから一 日中食べ続けるしかない」という話しであった。 内視鏡やCTの写真を駆使して、時間をかけ丁寧に説明されたことに反論する知識もないが、食欲が出なくても食べろと言われただけの ことではないかと少し腹立たしくもあった。しかしこれが現実で他に何も方法がないということがわかった。 午後には、家内にも来てもらって2回目の栄養指導を受けた。XX先生の勧めで、今回は前回と違って実践的で役に立つ指導だと言われ たので、少し期待したが、結果はまったくの期待はずれであった。前回と同様、指導栄養管理師は患者の現状やニーズをまったく把握し ておらず、内容も前回と殆ど同じで途中から聞く気もしなくなった。 教科書的な知識は本やインターネットでも得ることができる。こちらのニーズは、「見ただけでも食欲がなくなるようなときどうすれば よいのか?」であるが、こんな質問には答えようがないと分かっているのなら、期待を持たせるような指導なぞしないほうがよほど精神 衛生上も良いと思う。こういう患者がどうやってこのような状態を克服したのかという実例などを紹介するとか、小分けして食べるメニ ューの工夫とか、せめてそれ位のノウハウを提供してくれないと、こんな指導にお金を払わなければならないと思うと腹が立つ。 インターネットで調べたこちらの資料の方が余程役に立った。 今日分かったことは、要するに医学的には、許容範囲内でほぼ順調に回復しており、あとは患者が如何にして努力して食べるかにかかっ ているということであり、裏返せばお前の辛抱や努力が不足しているということであった。今回の入院では体重はまったく増えなかった。 むしろ減り気味であった。10月30日に腸の検査を受け、退院することになった。 がん仲間の東松山の廃鶏尊師も見舞いの後で、辛抱が足りないと言う趣旨のメールを書いてきたが、こちらは元々こんな辛抱をしたくな かったから必死になっていたのである。時間をかけ大回りをして馬鹿馬鹿しい喜劇を演じたようで、空しさを感じた。 10月30日 朝8時から12時過ぎまで胃の機能評価が行われた。全ての作業を医者が行ったが、ナースにやらせてもいい作業も多かった。これでは 医者がオーバーワークになるのも当たり前だ。なんとも忙しい検査であった。5時過ぎまで待って、透視検査を受けた。例の猫の餌を皿 一杯どんどん詰め込まれX線画像で見る検査だ。 医者の話では胃の形状は良くできているが、猫の餌はあっという間に胃を通過し、腸へ送り込まれているという。TV画面で見ると素人 でもその様子がはっきり分かる。これではダンピングが起き易いはずだと言われたが、入院後11日経ってそう言われても釈然としなか った。 毎食事前10分頃水かお茶を飲んで、次に消化の良い物を小口に分け良く噛んで食べ、、最後にご飯など腹持ちするものを食べると良い そうだ。 それにしても違和感は1,2年あるだろうとのご託宣であった。結局即効性のある対応策は何もないと言うことが良く分かった。これが今 回の入院の成果(?)の全てである。体重は1kgしか減らなかったのも効果のうちかもしれない。 最大のメリットは、家内のストレス解消に少しは役立った点であろうか・・・・ 10月31日 今日は点滴もなく、全くの休養日であった。外出する気も起きず、持って来た文庫本の最後の本を読み終えることにした。 今回の入院は結果的には、治療には何の役にも立たなかったが、食道がんの手術の実体を身を持って知ることができた。手術前はある程度 時間が経てば健康体に戻れると思っていたが、それほど生易しいものではない、かなりの日時の辛抱と努力が必要なものであることがわか った。 31日は家内は仕事があるので、翌日の11月1日の日曜に退院した。食道がんの記録はこれで一旦終了することにする。完治には程遠いが、 もし完治することがあればその時、改めて総括的なものを作りたいと思う。これまでの闘病生活で得た知識・教訓や感想
12月初旬『NHKスペシャル:立花隆がんの謎に挑む』という番組が放映された。 この番組を見て、がんが正常な幹細胞に良く似ていること、生命維持・存続の仕組みそのものにがんの起因に関するものがあること、がん になる理由は分かってきたが、治すことはこの半世紀の間あまり進歩しておらず、がんを征圧するにはまだ相当の年月が必要であること が良く分かった。 要するに今現在、がんを治療できるのはがんが原発部分に局限されて転移を起こしていないごく初期段階で、手術で取り除くことができ る場合に限られているということである。がんの塊の真ん中あたりは血管の新生が追いつかず低酸素状態になるが、そのような過酷な環 境に順応し働き出すHIF−1(ヒフ-ワン)という遺伝子は、放射線や抗がん剤でも生き残り他の組織に移動浸潤する。 しかも厄介なことにこのHIF−1という遺伝子は、生物がその長い進化の過程で獲得したものであり、人類の存在もこの遺伝子の存在 があってのことであり、がんだけに効く薬ができない理由の大きな要因になっているということであった。重粒子線は、この低酸素状態 のHIF−1も破壊するということだったので、私は期待していたのだが、結果的には私の食道に取り付いたがんには効かず、何故効か なかったのかもわからずじまいであった。 この立花レポートで抗がん剤も、免疫療法も僥倖に恵まれない限りそれほど期待できないことが良く理解でき、今回自分が手術を選択し たのは正しかったのだと改めて納得できた。しかし、この詳細なレポートを見たことで、今後の自分の未来にあまり期待ができないこと もわかり、今後の自分の生き方に、未だに確固とした信念や覚悟を持てないことに戸惑いを感じた。 手術後の後遺症がこれほど辛いものだという現実を知った今、65歳という私の年齢を考えると、完治を目指すには手術しか選択肢が無 かったとは言え、がんとの共存を選ぶ道もあったと思う。なんと言っても手術前は、重粒子線治療中も抗がん剤治療中も、自覚症状は殆 んど無く、治療の副作用で苦しさを少し感じた程度であったからだ。 このテレビ番組の後、週刊誌に柳田邦男氏と立花隆氏の対談が出ていた。柳田邦男の著書はがんに関しては「ガン回廊の朝」、『死の医 学への序章』等を読んだ事がある。 それ以外では「マッハの恐怖」がおもしろかった。立花隆の著書は「宇宙からの帰還」「がんと闘った科学者の記録」 「脳死 」等を読 んだ。 この週刊誌の中で柳田は『死ぬならがんで死にたい。がんは、最後に豊かな時間を与えてくれる』と言っている。 さらに『がんを怖がっていたら時間がもったいない。誤解を恐れずに言うなら、堂々と、がんを楽しみながら生きる』とまで書き、『僕 は、自分の死を確認することにより、自分の精神が後を生きる人々の心の中でどう生きるのか楽しみだし、そう思うと死を肯定的に受容 できるなと。』とも言っている。 柳田は確かに多くのがん患者にインタビューしており、私より何倍もの知識や経験があると思うが、これらの言葉に私は違和感を覚えた。 彼の言葉は、手術後の後遺症の苦しみ、痛みや再発への不安など自分のものとして経験していないから言えるのではなかろうか?確かに がんは『豊かな時間を与えてくれる』がそれは体調が安定しているときの話であり、苦しみ悶えている時間の方が圧倒的に多く、そんな 時には誰もインタビューなど受け付けないし、のた打ち回っている患者を一部始終見たことがないものが本当に言える言葉であるのだろ うか?夜昼かまわず絶叫に近いうめき声を聞いて『堂々と、がんを楽しみながら生きる』ことができるとは私には無理な相談である。 『死にともない』 山田無文 著 春秋社 刊より抜粋してみる。 博多に仙崖という名僧がおられました。 その仙崖さんの描かれた絵が禅画と名づけられて、 ヨーロツパやアメリカでちかごろ好評を博しておるそうでございます。 亡くなられるときに弟子たちが 「いよいよあなたもご最期のようだが、 何かええことばを一つ遺していただきたい、 ご遺戒をちょうだいしたい」 、こういってお願いしましたら、 仙崖和尚が 「死にともない、死にともない」 と もうすこしええことをおつしやつてください」ともう一度お願いしたら 「ほんまに、ほんまに」 といわれたという逸話がのこっております。 私はこれで良いのではないかと思う。生を受けたものは必ず死ぬのは当たり前なのだが、自分のことになったら当たり前ではなくなって しまう。それでも必ず死ぬ。 死後について昭和63年に刊行された検事総長であった伊藤栄樹氏は著書『人は死ねばゴミになる』というなんとも刺激的で絶望的なネー ミングの本で 『僕は、人は、死んだ瞬間、ただの物質つまりホコリと同じようなものになってしまうのだと思うよ。 死の向こうに死者の世界とか霊界といったものはないと思う。死んでしまったら、当人は、全くのゴミみたいなものと化して、意識のよ うなものは残らないだろうよ』と書き、さらに『人間の死んだあとに霊魂が残るなら、草や木にも残るのでなければおかしい。一方、 地球上に生命が誕生してから、ある程度の時間が過ぎているが、その間に”死んだ”生命どもがみんな霊魂をあとにとどめたとしたら、 もうこの地球は、それらで充満しており、僕の魂が割り込む席はないのじゃないかな。だから、僕は、残される家族のためにやっておき たいことは、何としてもいのちのある間にやっておかなければ、と思う。 死の到来との競争で。』と書いている。残される家族の心情も考えた上での言葉である。一方ラ・サール会の修道士で函館ラ・サ ールの校長でもあったブラザー、ラベル先生は学生から『先生は天国の存在を本当に信じていますか?』と問われたとき『ハイ、信じて います。だってその方が楽しいじゃありませんか』と答えられた。 手術を行ったことで転移・再発がなければ、そのうち体調も回復し旅行にも出かけ美しい自然を満喫することができるだろうが、そうな らないうちに再発することも考えられることであり、手術という決断が最良のものであったかは、まだ評価できない。手術を選択しなけ れば、それはそれでまた別の苦しみに遭遇するかもしれないし、全く厄介な病気に罹ったものである。現実から眼をそらさず、期待もせ ず悲観もせず、あるがままを受け入れられる心境に早く達したいものだ。 このように、私は未だに手術を選択したことに対し頭の中の混乱状態から完全には脱し切れていない。死ぬこと自体は恐ろしいことだと は思わないようになったが、従容としてそれを受け入れられるかは、まだ自信がない。 「人間は死ぬまで生きていることができる」ということに立花氏はよりどころを見つけたようだが、凡人である私がこれまでの入院生活 で感じたり知りえた知識や感想を最後に記して、今回の記録を取り敢えず終了させたい。 以下の駄文は出江先生や駒込病院を非難する目的は一切ないし、むしろ先生方はこの小うるさい患者に親切にしてくださった。 病院は現在大規模な改築工事が進行中であり、来年にはもっと設備の整った病院に生まれ変わるであろう。また不可解な規則や医療体制 も今後改善されるだろうし、そうなることを期待してのものであることをご理解いただきたい。 @「手術は単に物理的にがん細胞を含んだ組織と、あるかもしれないと思われる組織を取り除くだけの治療である」 「今の医学では治療の前に効果をあらかじめ個別に予測することは不可能な段階である。」 医者が治ったと思う状態と、患者が治ったと思う状態には絶望的と思えるほどの乖離がある。まして侵襲性が低いと言うのは医者の 判断で、過去の手術を受けたことがない患者にとっては全く意味のない判断である。しかしそれでも手術は劇的に進歩したといわれ ているし、命を永らえる方法としては、現状では最も確実な方法なのである。 元理化学研究所の永井克孝(ながいよしたか)先生は家内が勤める「フォルム画廊」に時々お見えになる方で、家内との雑談の折、 私が食道がんに罹ったことを知られ、国立がんセンター総長垣添先生の著書「がんの最新医療」を下さった。先日、先生は、結局、 私が手術を受けることになりその後遺症で鬱的になっていることを家内から聞かれ、今度は五木寛之の『養生の実技』という本を下 さった。五木寛之はその本の中で『私の考えでは、病気は治らない。 治めるだけだ。完治と言う言葉がすでにマヤカシである。 手術が大成功してガンが消えたら、体はもとに復するか。そんなことは子供にでもわかるだろう。体にメスを入れたという経歴は、 決して体の歴史から消し去ることはできないのである。』と書いている。 A手術後の生活について、ケアは本人と家族次第で、医師は患者の生活がどれくらいの困難さに遭遇するか、精神的な苦痛についてあま り理解していないし、そのことについての説明や対処方法に興味を持っていないと思わざるを得ない。各種の検査などのデータだけ で判断し、生活の質には目が向いていないのではないかと疑いたくなる。 B「医者には社会的常識がかなり欠落している人が多い。」と言ったある前首相の放言は正鵠をついている部分がある。 特に若い医師について言えるが『長幼の序』は医師対患者の世界では死語である。医学上の情報や知識の格差が、上から目線を生ん でいることに気付いている医者は希な存在である。もっともサラリーマンも情報格差が序列に繋がっている点では同じかもしれない が・・・ C勤務医の処遇は開業医に比べ、報酬面や勤務体制がかなり劣悪である。また、病院の設備・病室や保険制度そのものも不合理さの改善 が制度的になされている状態ではない。 医師も看護師も余裕がない状態で、個人的な献身や責任感だけが頼りになってしまい、行き着くのは破綻となってしまうのではない かとの危惧を持った。 D集学的医療と言う言葉を聞いたことがあるが、これを機能させる専門家や組織があるとは思えない。また統計的に意味のあるデータベ ースの存在もあるとは思えない。 月に人類を送り込んだNASAのような組織や仕組みが、何故できないのか、歯がゆい思いを禁じえない。「重粒子医科学センター 病院」のように実質的に放射線科しかない病院は、最初から集学的医療なぞ考えていない象徴ではないか?設立当初はともかく、莫 大な資金を投じて重粒子線治療だけしかできない状態のまま、存続させていることが 私には理解できない。出江先生は『日本の医 療は最小の医療費で、世界最高の医療を提供している』と言われたが、最小に近いことは実感できたが、世界最高の医療を提供して 頂いているとは、先生には申し訳ないがとても思えない。先生の「医療」の定義が、私の考える「医療」の定義とは異なるからだと 思う。 E臨床試験に応募するときには、これが自分の治療のために行われるものではないことを充分理解する必要がある。また、臨床試験の倫 理規制も良くは分からないが、合理的と言えるのか疑問を感じた。免疫療法の臨床試験で、他に治療法が無くなった患者のみをその 対象にしていると知ったとき、素人考えではあるがあまりに馬鹿馬鹿しいと感じた。 F医師の担当する分野の細分化が進み、病気を治癒するという目的からかえって離れていってしまっている印象を強く持った。現状では ワンストップ治療などまず不可能である。 これはDの問題と不可分の関係にある。 Gナースのキャリアパスを整備し、向上心の維持と報酬へのリンクをもっと整備すべきだし、激務に見合う処遇や勤務体系の改善も必要 だと思う。 他の業種の交替制の研究もすべきだと思った。専門性の知識を認定する制度はあるようだが、一般会社にある役職制や資格制度のよ うな給与に結びついた仕組みが考えられないのであろうか? H自分の余命は、秒読み段階にはなっていないと思うが、一般的に考えれば10〜20年後位である。がんが再発したとしても生存年数 の多寡はあまり意味のあるものではない。 良い死を迎えるには良い生き方をしなければならないという意味で、今後は治療よりQOLを重視して判断し、生きて行きたい。 I駒込病院は現在改築中であるが、一人当たりのスペースにもっとゆとりのある病室や患者が談笑したり食事が取れる共有施設、ステン レスの冷たい浴槽ではない快適な浴室等を期待したい。またインターネット回線を個人が個別に使用できるようにしてもらいたいし、 土日に利用できない「こまどり」という施設も無休で利用できるようにしていた だきたい。とにかく今の大部屋は、病気を良くす る為に役立つとはとても思えないものであり、根本的に病室のあり方を考えていただきたい。 最後になって申し訳なく思うが、主治医の出江先生と主担当ナースの○○さんに謝意を表したい。出江先生はこの小うるさい患者に辛抱 強く向き合っていただき殺人的スケジュールの中でいつも丁寧に説明をしてくださった。病室においても症状の重い患者に優先的に個室 を割り当てられるなど、当たり前ではあるが金次第という風潮を是正されていたことに敬意を表したい。 主担当ナースの○○さんは、どうしてだかは良く分からないが、私が彼女の親族であるかのように心から看護してくれた。 彼女は彼女自身困難な状態にあり、他人のことなどかまっていられない状況であったが、外見だけは元気溌剌で、彼女と話しているとこ ちらも元気になった。手術以降は他に面倒を見なければならない人が多いらしく、私には一向に関心も向けてくれないが、入院中の献身 的な看護には感謝してもしすぎることは無いと思っている。退院して会えなくなってしまった事が残念である。「鏡視下食道切除・再建術(HALS併用)」の実際 −ダブルグラブ法とロープーウェイ法−
以下のコンテンツはDr.井上晴洋氏のホームページから抜粋したものです。
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わが国における胸腔鏡下食道切除術は、川原らの報告1)にはじまる。それにひきつづいてわれわれも胸部操作のみをおこなう胸腔鏡
下食道食道切除術[2]を報告した。 赤石らは、多数の経験を報告し、胸腔鏡アシストの手術は一般に広がった「3」。さらに胸部操作に
くわえ、腹部操作も同時におこなう方法として、1997年5月2日に本邦第1例の「鏡視下食道切除・再建術(HALS併用)」[4]を施行
した。東野ら5)、大杉ら6)は、多数の手術例のなかで、胸部での郭清の徹底化をはかり、良好な成績を報告した。内視鏡外科手術であ
っても、術式の基本はこれまでに確立されている開胸開腹術7,8)と変わらない。郭清において開胸開腹術に追いつくことが目標である。
とくに拡大視効果では内視鏡外科手術が有利な部分もある5,6)。 I.術式の概略「鏡視下食道切除・再建術(HALS併用)」A. 再建先行、頚部・腹部同時進行、さい石位腹部HALS併用、横隔膜切開、下縦郭郭清、腹部リンパ節郭清、下部食道・胃上部授動、半切胃管再建、胸骨後ルート、頚部食道・挙上 胃管の端側吻合、幽門部からの十二指腸内栄養チューブ留置、胃管減圧の挿入、両側頚部郭清、両側反回神経テーピング B.胸部操作、左側臥位胸腔鏡下食道切除術(4cm小切開併用)、胸部食道および胃上部の摘出、上縦隔・中縦隔 リンパ節郭清 II.腹部操作の実際1.HALS "double glove technique"体位をさい切位とする。術者は患者の股間にたつ。はじめに、HALS(Hand-assisted laparoscopic surgery)をおこなうために、右上
腹部で正中から2cm右寄りに縦7cmの皮膚切開をおく。その7cmの皮膚切開を通してラッププロテクター(トップ社)を装着する。 図1.HALSの風景 "double glove technique"をおこなっている。これで十分な気腹が保てる。トロッカーは左上腹部に3本(10−12mm)をおく。1本はスコープ用、1本は術者の右手の鉗子用。もう一本は胃の下方向への牽引用 である。 2.腹部食道の剥離腹部食道の剥離にあたっては、尾状葉前面の小網の無血管野からアプローチ(右側アプローチ)で始めても構わないし、脾臓を下方に 見ながら腹部食道へ直接アプローチ(左側アプローチ)しても構わない。HALSの場合はとくに術者の左手の甲で肝左葉を腹壁側に圧排しな がら、食道を直接指でさわることができるので、一連の操作は簡便である。食道癌手術の場合は、食道に沿って剥離するのではなく、横隔 膜脚の表面の筋繊維を露出するように、食道横隔膜靭帯をいっしょに切除するような感じで剥離してゆく。左右の迷走神経本幹を切離する。 3.横隔膜の切開左指をガイドとして、横隔膜の正中線にそって、横隔膜切開をおく。下縦隔郭清のためである。112番で大動脈の左側を郭清する場合、 しばしば、左開胸となるのでその場合は手術終了時に左胸腔ドレーンを留置するほうが無難である。右側では、意図的に縦郭胸膜を破って、 右胸腔内と連続させる。この横隔膜切開部を通して、左手を挿入すると、指の先端で気管分岐部を触診することができる。下縦隔において 111番、112番、110番、108番の下方と、腹部の20番、7番、9番を一塊として郭清するのが目的である (図2)。また椎体に乗っ
て胸管を横隔膜靭帯の高さで下端部処理をすることができる。
図2.腹腔鏡の画像 横隔膜切開をおいたあとの下縦隔。横隔膜切開をおけば、腹腔側から下縦隔の十分な郭清が可能である。とくに112aは腹腔側からのア プローチのほうが視野がよい。4.胃上部の授動基本的にはLAPG(腹腔鏡補助下噴門側胃切除)やLATG(腹腔鏡補助下胃全摘術)のときの胃上部の剥離操作とおなじである。脾臓を温存 しつつ大湾線にそって、辺縁動脈をできるだけ胃に残しつつ授動する。大湾線はとくに右胃大網動脈系はきずつけることのないように配慮 しながら、正中右側まで授動しておく。小湾線は膵臓の上縁にそって腹部リンパ節郭清をすすめる。11p、7、8a、9、16の一部が 郭清される。左胃動脈根部は、腹腔鏡視野下に切離するのが容易である。 5.半切胃管の作成腹部食道および胃上部の十分な授動ができていれば、HALSの小切開創(ラッププロテクターはつけたまま)から、余裕を持って体外 に引き出すことができる。半切胃管の作成のための切離は弓隆部側からはじめる(図3)。この写真では、2列のlinear stapler(TLC 75mm、青歯)を使用しているが、最近では3列のlinear stapler(エシュロン)を好んで使用している。3列の場合は奨膜筋層縫合を置いて いない。胃管の頂部を小児用腸鉗子でもって、丁度、胃が半切になるようにエシュロン(青歯)できっていく。胃の長軸方向に3回、幽門部 まできたら、直角にちかく小湾線に1回で切り抜く(図4)。この操作で、胸部食道と胃上部は連続した切除標本となる。切除標本と連続す る腹腔内の索状物はすべて処理しておく。この段階で、切除胃を胸腔内に押し込むことは可能であるが、胸部操作の妨げになるので、腹部に おいたままにしておく。 図3. 図4.![]()
半切胃管の作成、腹部食道および胃上部の十分な授動ができていれば、HALSの小切開創(ラッププロテクターはつけたまま)から、余裕
を持って体外に引き出すことができる。半切胃管の作成は弓隆部側からはじめる。この写真では、2列のlinear stapler(TLC)を使用して
いるが、最近では3列のlinear stapler(エシュロン)を好んで使用している。3列の場合は奨膜筋層縫合を置いていない。
III.頚部操作の実際カラー切開をおく。両側頚部郭清を基本としている。甲状線を脱転して、左反回神経同定する。青色のテープをリボン状にまきつける。
頚部食道を気管膜様部と椎体前面から剥離して、頚部食道にテーピングする。胸部食道癌の場合、胸骨上縁を目安に食道を仮切断する。
口側食道断端は手縫いで2−0プロリーンによるタバコ縫合をおく。25mmCDHのアンビルヘッドを口側食道断端に埋め込む(図4)。
一方、胸骨上縁をケント鈎で直上に引き上げながら、テーピングした左反回神経を可及的に下方に追及しておく。両側の頚部郭清をおこなう。
その際、右側でも右反回神経を露出させて、赤いリボンをつけておく。頚部での101番の郭清部の縦隔側の最深部にテープをおくっておく。 胃管は胸骨後ルートで頚部までもちあげる。端側吻合をおこなう。頚部食道のタバコ縫合は2−0プロリーンのタバコ縫合でおこなう。
持ち上げた胃管の断端からILS25mmを挿入して、胃管の後壁からニードルを突出させて、頚部食道に挿入したアンビルと合体ののちに
器械吻合する(図6)。吻合後は、口側と肛門側の組織がリング状に打ち抜かれていることを確認する。癌が頚部食道にも広がっており、頚
部食道をもっとも高位で(喉頭温存で)吻合する場合、切歯より19cmが限界と考えている。その場合は器械吻合でなく手縫いとなる。
ILS25による端側吻合が終了したのちの、断端処理はエシュロンを用いて、盲端を約2cmとしている(図7)。 これまでに「鏡視下食道切除・再建術(HALS併用)」を103例に施行しており、頚部での縫合不全は8例(7.7%)であり、いずれも
minor leakageで、自然閉鎖している。Major leakageの症例はない。 再建が終了すると、胸腔内に空置されている胸部食道と胃上部を胸部操作で切除する。体位を左側臥位として、右の胸壁にトロッカーを5
本挿入して胸腔鏡下食道切除をおこなう。その際に第4肋間乳頭線上に4cmの小切開をおき、肺圧排鈎を挿入する。奇静脈弓を椎体側、心
臓側の2箇所でendostapler白歯で切離している。 反回神経周囲の郭清を徹底するために、"ロープーウェイ法"をおこなっている。これは頚部操作でリボン状にテーピングしたカラーテープ
を、胸部操作でそれぞれの反回神経の起始部まで誘導して郭清をおこなう。たとえば、右反回神経では、右鎖骨か動脈の部分で、右迷走神経か
ら分岐するところまでテープを移動する。左反回神経では、頚部で巻いたテープを左上縦隔で見つけ出して、そのテープを左反回神経の走行に
そって、大動脈弓下の左迷走神経からの起始部まで移動させ、テープを引くことで、神経に軽い緊張を持たせながら、反回神経周囲の郭清をお
こなう。 われわれがおこなっている「鏡視下食道切除・再建術(HALS併用)」の術式の概略とそのなかでの器械縫合、器械吻合の実際について説明
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