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寮生のスピーチ
 
昭和38年(1963年)ラ・サール高校を卒業した我々は40年の歳月を経て鹿児島に集いました。

中学寮初代寮生

 
これは昭和35年(1960年)中学寮初代寮生の写真です。私が入学したときはまだ中学には寮がなく学校の近くに下宿していました。中学3年のとき寮ができました。最前列にいるのがそのときの3年生です。私は最前列左から3人目です。
真ん中に座っている3人の方がカナダからこられたブラザー(修道士)で左側からシプリアン先生、オーラス先生(校長先生)、レオ先生です。
この写真では殆ど靴を履いていますが、普段は裸足の方が多く、足裏はカチカチで夏の砂浜でも歩けるくらい厚くひび割れていました。
寮は学校内にあり、校庭の前は白砂青松、遠浅の砂浜で桜島を身近に望める最高の環境でした。
今、その海は埋め立てられ昔の風景はどこにも見当たりません。

中学寮寝室

 
中学寮、高校寮とも個室はなく、体育館のようなところに二段ベッドを並べていました。勉強は自習室で行い、夜10時消灯、朝6時起床という生活でした。朝6時になるとカランカランと手で打ち鳴らす鐘の音で起こされ、洗面後ラジオ体操、そして朝食という少年院と大して変わりはないのではないかと思われる環境でした。鐘が鳴ってもベッドの中で寝ているとシプリアン先生がやってきて、布団ごとベッドから落としてしまいます。私は一度、熟睡していて二段ベッドの上から落とされ、それ以後鐘がなるとばね仕掛けのように飛び起きるようになりました。
この癖は会社の寮に入っても続き、寮母さんに起こされるとパッと飛び起きるので良く笑われました。

高3時寮生



 
当時鹿児島では高校生は皆丸坊主頭と決まっていました。高校3年の2学期になってやっと長髪が認められ、髪の毛が段々長くなっているのを見るのがうれしくてよく鏡を眺めるようになりました。女性と隔絶された生活でしたが、たまに砂浜に女子高生が来たりすると大騒ぎで眺めていたものです。

遠足/磯庭園

 
卒業時、高校寮には43名の仲間がいました。寮の食事だけでは足らず、いつも腹をすかせており近くのラーメン屋や付け揚屋に行ったものです。ラーメンは黒豚の毛が数本ついたままの肉切れが一枚入っただけというもので一杯30円だったと記憶しています。
付け揚(さつま揚げ)は鹿児島湾で取れた雑魚を目の前ですり潰して揚げてくれ新聞紙にくるんで渡してくれます。揚げたての熱い付け揚げをフーフー冷ましながら食べましたが今でもその味が忘れられません。
文字通り同じ釜の飯を食べた仲間はこの歳になるといっそう貴重な財産となっています。
この写真に写っている仲間も、全員今回の同窓会に出席しましたが、当時の笑顔がそのまま帰ってきて、絆の強さを実感しました。

 40周年記念同窓会 

 
 
8月9日の同窓会は、鹿児島在住の同窓生がセッティングしてくれたもので同学年4クラスと中途転校者の集いです。
我々の同窓会だけの特徴ではないかもしれませんが、中途転校者にも積極的に同窓会参加を呼びかけ、地域ごとの同窓会にも結構参加しています。
在学時にブラザーが強調されていた『ファミリースピリッツ』が発揮されているからだと思います。
この日の司会も高校1年のとき転校した浜田君で、男女共学の高校生活をエンジョイできなかった我々をうらやませがるユーモアあふれる司会振りでした。40周年ということで、実行委員長の伊東さんをはじめ皆さんの熱意は凄いものがあり、出席者全員に左のようなIDタグまで用意してくれました。これは家内用のカードです。
卒業アルバムの写真を入れたIDカードをぶら下げたおかげで姿格好が激変した卒業生の名前がわかり、皆さんにとても好評でした。
鹿児島在住組の実行委員会はこの同窓会の前後に、学校訪問ツアーや、錦江湾クルージングを企画してくれ、久しぶりに訪れる県外組が鹿児島を十分楽しめるよう気遣ってくれました。
おかげで真夏の鹿児島を心ゆくまで楽しむことができ、感謝の気持ちで一杯です。
10年前の30周年同窓会は、豪雨に阻まれ、散々な目にあった人が多かったのですが、今回は罪を悔い改めたお陰か、台風一過の晴天に恵まれました。
高い飛行機代を出しても十分おつりが出るほど楽しい集いでした。  
 

錦江湾クルージング 

 
錦江湾クルージング
全体同窓会の翌日、川井田浩さんの豪華ヨットに乗せてもらい錦江湾クルージングを楽しみました。乗船できる人数が限られるため、彼は前日も船を出しており、本当にご苦労様でした。
船には沢山の高級ワインと、ホテル京セラのコックさんも乗船して料理を出してくれるという、贅沢なもので、しがないサラリーマンには得難い経験となりました。
川井田艇長のリッチマン振りはなかなかのもので『維持費?そんなこと考えたことないよ』『船の掃除?クラブがやってくれるからやったことないよ』とまさにお殿様でした。彼がウエットスーツを着るときもクルーが付きっ切りで面倒を見るし、操縦するときもうウォッチマンがいて至れり尽くせりでした。


寮生同窓会 

 
寮生同窓会(43の会)
 
高校を卒業するとき43名の寮生がいました。中学寮では16名くらいでしたから、多くは高校から入学したメンバーです。福岡から来た連中が最も多く、純粋鹿児島弁に悩まされていた私にとってはホッとすることができました。寮で流通する言葉は鹿児島イントネーションの影響を受けた九州弁のちゃんぽんみたいな変な言葉でした。中学のときは県外者が少なく、難解な鹿児島弁にカルチャーショックを受けていたのですが福岡組のおかげで言葉の悩みから解放されたものです。


今回40周年記念同窓会の案内があったとき、寮生同窓会を別にやろうという話があり、私が幹事をやることになりました。1年前にも東京で寮生に呼びかけて小規模の同窓会をやりましたが、今回は先ず43名が誰であったかを徹底的に調べました。40年もたっていると思い出すのに苦労しましたが、卒業記念に寄せ書きしてもらったノートが見つかり、正確に特定することができました。
調査の結果、物故者が一人、住居がわからない人が二人おり、40名の人に連絡することができました。このうち25名はEメールアドレスを持っており、この歳にしてはさすがだと感じました。
ホームページも利用して、結構しつこく勧誘した結果、24名の参加を得ることができました。鹿児島居住者は6名だけですから、参加率6割は寮生の結束の強さを雄弁に物語っていると言って良いでしょう。
いろいろな事情で参加できなかった仲間の無念さを思うと、元気なうちにまたこのような企画を立てなければと思っているところです。



40年振りに逢う同窓生も多く、髪も薄くなったりロマンスグレーだったりでしたが、すぐ童心に返り思い出話に花が咲きました。

私を含め3名が配偶者同伴でした。彼女たちの感想によると我々は子供らしい爺さんだということでした。

この日は朝7時半からクルージング、3時半から寮生同窓会、その後二次会と飲み続けた挙句、翌日も居残った数人と市内観光しながら飲み、その夜もまた飲むという無茶苦茶ぶりでさすがに胃の調子が悪くなりました。

**最後に**
全員の写真をそろえることができませんでした。皆さんの取った写真を送っていただければ、このHPに掲載できますので送ってください。


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